元プロレスラーのマサ斎藤さん(本名=斎藤昌典)が、14日午前1時5分に亡くなられていたことが明らかになりました。75歳でした。
所属する『健介オフィス』を通じて、マサ斎藤さんの妻・倫子さんがコメントを発表しており、「夫 マサ斎藤は長期に渡り、パーキンソン病と闘い続けて来ました。17年にもわたる闘病生活は、“Go For Broke!”(当たって砕けろ!) をモットーに掲げる彼にしても、想像を絶するほど辛く厳しいものでした。」と、難病「パーキンソン病」を1999年~2000年ごろに発症して以降、辛い闘病生活を送っていたことを明かしています。
そうした中で、「引退後17年振り、74歳にして聖地である”リング”復活のチャンスが巡ってきました。更には、来年、再びカムバックのチャンスも出て来ました。その為にリハビリに意欲を燃やしていた矢先。容態急変。」と明かし、「7月14日01時05分に永眠しました。穏やかながらも、新たなチャレンジへ向かう様な、マサ斎藤らしい力強い旅立ちでした。」と伝えています。
通夜・葬儀については家族や関係者のみで執り行う予定としています。
現時点ではお別れ会などについての発表はまだありません。
<↓の画像が、妻・倫子さんのコメント全文の写真>
このように訃報が伝えられたマサ斎藤さんは、学生時代にはレスリング選手として活躍しており、明治大学に在学中の1963年には全日本選手権に出場し、フリースタイルとグレコローマンの両ヘビー級で優勝、1964年の東京五輪に出場しました。
しかし、予選で敗退しメダル獲得とはならず、大学卒業後の1965年に日本プロレスへ入門したものの、翌年には離脱し、1968年には渡米してフリーで活動をスタートさせました。
アメリカでは「ミスター・サイトー」「マサ・サイトー」のリングネームで活躍し、その後再び日本での活動を再開させ、1987年にはアントニオ猪木さんとの歴史的一戦を巌流島で開催し、この試合は時間無制限・ノーレフェリー・ノールール・無観客で、「昭和の巌流島の決闘」と呼ばれています。
<↓の画像は、現役時代のマサ斎藤さんの写真>
その後1999年まで現役レスラーとして活躍し、1999年2月に引退試合を行い、2003年には新日本プロレスを離脱し、盟友の長州力さん等とプロレス団体『WJプロレス』を旗揚げし、会見に出席しましたが、この時すでにパーキンソン病を患っており、振戦や発語障害なども見られました。
2005年には、マサ斎藤さんのことを慕っていた佐々木健介さんが「ファンにマサさんのことを忘れてもらいたくない」として、自身が運営する事務所『健介オフィス』を株式会社化する際に、マサさんを選手アドバイザーとして招聘しました。
その後も病気の影響を見せながらも、プロレス技を決める姿などを見せており、最近では2016年12月開催の興行で約4年ぶりに、介助されながらもリングへ上がる姿を見せ、昨年4月にも大阪で開催の興行でリングに上がっていました。
<↓の画像が、2016年12月にリングへ上がったマサ斎藤さんの写真>
(左は武藤敬司さん)
そんなマサ斎藤さんは2015年11月に受けた『東京スポーツ』(東スポ)のインタビューでは、2020年東京五輪の聖火ランナーを務めることを目標としてリハビリに励んでいると語り、2016年大晦日には『日刊スポーツ』の取材も受けていました。
マサ斎藤さんは当時、栃木県内のリハビリ病院で病気の進行を抑えるためにリハビリに励んでいたそうなのですが、現役時代から一変し、その時すでに体重は70kg(現役時代120kg)まで落ち、ムキムキに鍛えていた筋肉はすっかり落ちて身体は小さくなり、背中も少し丸まっていたとながら、「あいさつした記者を車いすから見上げた目は、戦いの中にいる男のそれだった」と伝えていました。
なお、マサ斎藤さんがパーキンソン病だと診察されたのは、国内外の様々な病院を転々としてから1年以上経ってからのことだったといい、発症した原因について医師からは、「現役時代に蓄積された脳へのダメージ。暴飲暴食、リングに上がり続けるために飲んでいた強い鎮痛剤も関連している」などと言われてとのことです。
<↓の画像が、リハビリ治療を受けるマサ斎藤さんの写真>
そして、この時点ですでに病気の症状は“末期”に入っていることが伝えられており、1日に数回は発作が襲ってくるほか、全身の震えが起きると止める術はなく、治まるまで待つしかないという状態で、「1回1時間のリハビリを1日に3回。365日、少しでも怠れば体の自由はさらに奪われる。」という深刻な状態にありました。
こうした状態にありながらも、マサ斎藤さんは取材に対して「パーキンソンは恐ろしい病気だ。だが、俺はこうして戦っている。絶対に負けるもんかと。こいつをやっつけないと、俺は生きていけないんだ」と、現役時代から変わらない姿勢で病との闘いを続けていました。
しかし、マサ斎藤さんでも難病のパーキンソン病には勝てず、14日に75歳で亡くなられたことが明らかとなりネット上では、
- 残念、長州力さんと組んで活躍していた時代を懐かしく思い出します。
- マサさんも2~3年前フラフラの体で後楽園ホールのリングにたってたなあ 武藤さんがサプライズでマスク被って攻撃してた これは辻アナも寂しがりそうだ
- 命を削ってお客を楽しませてくれるプロレスラー。75歳は長生きの方ではないでしょうか。ご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。
- プロレスラーは早死にが多い。過酷なスポーツで体に負担が大きいうえ、筋肉維持のためプロテインなど増強剤を常用してるから。
- 中邑真輔がアメリカで大活躍だがマサ斎藤もアメリカで大活躍したレスラーのひとり。アメリカではマサ斎藤スタイルのバックドロップを『サイトースープレックス』って言うんだもんな。マサ斎藤の影響力の強さを表してる。大きな影響を受けた長州力はマサ斎藤がいなければあそこまでのスターになれなかったかもしれない
- 大好きだったなぁ!対猪木戦絡みで様々なドラマを見せてくれた立役者。猪木ならずとも長州、谷津、ニックボックウィンクルなどが縁がある。新日にAW Aを一時期定着させた功績は偉大だと俺は思う。大変お疲れ様でした、ゆっくり休んで下さい。
などのコメントが寄せられています。
また、「昭和の巌流島の決闘」を行ったアントニオ猪木さんはコメントを寄せ、「マサ斎藤選手の訃報に接し、心より哀悼の意を表します。思えば斎藤選手とは、東京プロレスからの長きにわたるご縁であり、巌流島での2人だけの決闘は忘れることができません。私のライバルとして、五輪代表選手として、尊敬できるレスラーでした。ご苦労さまでした」
と、マサ斎藤さんの死を悼んでいます。
<↓の画像は、2014年撮影のアントニオ猪木さん、マサ斎藤さんの写真>
また、マサ斎藤さんの明大時代の同級生で『新日本プロレス』の相談役を務めている坂口征二さんは、「何と言っていいのか分からない。男気にあふれた人間だった。外国人レスラーには一目置かれていたよ。親分肌で面倒見も良かったからね。亡くなる前の日まで元気に話していたと聞いた。近いうちに会いに行かなくちゃいかんなあと思っていた矢先の訃報だった。心から哀悼の意を表します」
とコメントし、長州力さんは「言葉が見つからない」とショックを受けている様子です。
マサ斎藤さんらと同時期に活動していた選手も年々減っており、プロレスファンからは死を嘆く声が多く上がっています。
こうして時代を彩ったプロレス界のレジェンド、名選手たちが次から次へと去っていくというのはある程度仕方のないことで、マサ斎藤さんもパーキンソン病を患いながらも75歳まで十分生きたと言えるのですが、やはり残念という気持ちでいっぱいです。
マサ斎藤さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。